§ 米朝交渉のゴールポストはシンガポール共同声明の履行であり、安保理決議の履行ではない。
2018年6月12日のシンガポールにおける史上初の米朝サミットからちょうど一年になる。シンガポールにおいて合意された米朝首脳共同声明は、2018年に合意された2つの南北共同宣言とともに、今も朝鮮半島と北東アジア地域の平和と非核化を実現するための出発点となる基礎的合意文書である。
2月末にハノイで開催された2回目の米朝サミットは、合意文書を出すことはできなかったが、米朝両首脳とも、それぞれが抱えている国内事情について、直接会話を通じてしか得られない感触を得たはずである。しかし、その後現在に至るまで、ハノイで得たものを基礎として次の段階に進む機会を、両国とも見出すことができないでいる。進むべき具体的な道筋が見えないときには、70年近く続いてきた両国間の敵対と不和の歴史の垢が様々な形で表面化する。西側の国々ではDPRK(以下、北朝鮮)を悪魔化する論調が力を増して、情勢を正しく捉えることがいっそう困難になる傾向が現れている。
このように米朝交渉が不安定化しているこの時期においては、シンガポール共同声明の履行こそが米国と北朝鮮両国関係を転換させるための政治的約束であることを再確認することが極めて重要である。意図的であるか否かを問わず、安保理決議の履行とシンガポール米朝合意の履行の関係を混同したり歪めたりする議論が目立っていることに、とくに注意を喚起したい。
ハノイ会談以後、米国は「北朝鮮の非核化」ではなく、「北朝鮮の大量破壊兵器の完全廃棄」が目標であることを強調することが多くなった。
例えば、ハノイ会議の直後、米国務省高官が随行記者にブリーフィングした際、高官は「北朝鮮の大量破壊兵器(WMD)」に多く言及した。高官が「北朝鮮は現時点においては、WMD計画のすべてを凍結する意向をもっていない」と述べたが、それが国連安保理決議によって課せられた制裁の解除に関する発言であれば、とりたてて問題視する必要はない。しかし、実際にはシンガポール共同声明の履行の核心にある寧辺施設の定義を巡る議論において高官は次のように述べた[注1]。
「…寧辺核複合施設の定義は何かなど、シンガポール共同声明以来、我々には長い間届かなかった詳細レベルの問題にまで協議を進めた。この寧辺とは何かという問題は、我々は北朝鮮のWMD計画のすべてを解体することを目指しているのであるから、我々にとっては極めて重要である。」
つまり、ここでは、シンガポール共同声明の履行について述べる文脈において「WMD計画のすべての解体」が主張されている。
別の例を掲げるならば、3月7日に国務省高官が北朝鮮問題で特別ブリーフィングをした際においても、同じことが繰り返された。ハノイにおいて米国が寧辺核施設だけではなくてプラス・アルファを要求したと北朝鮮の李容浩外務大臣が述べたことについて、記者が「これ(プラス・アルファ)はウラン濃縮の地下施設なのか、ボルトン安全保障問題補佐官が要求したと述べたところの『生物化学及びすべてのWMD』なのか」と質問した。それに対して国務省高官は「李容浩外務大臣が何を意図したのかは分からないが、大統領が金(正恩)委員長に何を提案したのかははっきりと言える。それはWMD計画の完全廃棄だ」と回答したのである[注2]。別の記者が「WMD計画の完全廃棄という意味は化学、生物、及び核兵器ということで間違いないか」と念押しをして、高官が「そうだ」と応える一幕もあった[注3]。
このように、米国は、明らかにシンガポール合意の履行の文脈において、核兵器計画のみならず、すべてのWMD計画の廃棄を追求している。それも最終的な目標という意味ではなく、当初からの要求として提出している。
もし、米国にとって安保理決議の履行が優先的ゴールであるならば、WMD計画すべてが問題にならざるを得ないであろう。しかし、安保理決議の履行が米国の目的であることが明らかであったならば、そもそもシンガポールにおける歴史的な米朝首脳会談は実現しなかったし、米朝首脳共同声明を発することもできなかった。安保理決議履行と米朝共同声明の履行は明確に区別され、両者の関係を正しく認識することが必要である。
国連安保理が国連憲章第Ⅶ章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」の規定に基づいて北朝鮮に対する国連の行動を決議したのは、2006年10月14日の決議1718(2006)が最初であった。それ以来、制裁に関する決議は10回採択された。その内容は、ほとんどの場合、北朝鮮に対して、「核実験」と「弾道ミサイル技術を用いたすべての発射」を禁止し、核兵器及びすべてのWMDとそれらの計画、および弾道ミサイル計画を廃絶することを、完全・検証可能・非可逆的な方法で行うよう要求した。最後となる10回目の決議は2017年12月22日に採択された決議2397(2017)である。
北朝鮮は、これらの決議に対して、核兵器・ミサイル開発は米国による北朝鮮への脅威に対抗するための正当な自衛の措置であり、国際的平和を脅かす行為ではないと反論し決議を拒否する姿勢を示し続けた。さらに、北朝鮮の体制転覆をリハーサルする米韓大規模軍事演習を平和への脅威として取り上げない偏った安保理決議のあり方を国連憲章に反すると反論した[注4]。
このようにして、国連憲章第Ⅶ章の規定を基礎にした安保理の経済制裁決議によって北朝鮮の核兵器開発計画(実際にはすべてのWMD計画)を廃棄させる試みは、11年以上にわたって強化され続けたが、状況は改善しなかった。この状況を打破したのが米朝首脳会談の実現であった。そして、会談の結果、米朝はシンガポール共同声明に合意した。
経過から明らかなように、国連安保理決議の履行とシンガポール共同声明の履行の間には根本的な違いがある。前者においては北朝鮮が合意できない決議の要求に対して北朝鮮が履行を迫られるのに対して、後者においては米朝が合意した内容について双方が履行の義務を負うのである。この合意の履行によって、安保理決議が掲げた目標についても実現に向けて重要な一歩前進をはかることができるので、国際社会も米朝合意を強く歓迎したのである。したがって、現在国際社会が集中すべきなのは、米朝双方の努力によるシンガポール合意の履行であって、安保理決議を持ち出してWMD計画を云々することではない。
国連など多国間会議の場において、安保理決議が多く語られる必然について理解できない訳ではない。しかし、米国や日本という朝鮮半島情勢に密接に関係する国が、現状においても安保理決議を持ち出して制裁の維持を中心に主張するのは、誤った政策判断であり、シンガポール合意を困難に陥れる危険性を孕んでいる。
ここでは、以下において日本政府の言動についてのみ指摘しておきたい。
朝鮮半島非核化問題を追うジャーナリスト太田昌克によれば、日本政府は「シンガポール首脳会談の前から、生物・化学兵器を含むWMD問題への対処を米政府中枢に求めてきた」[注5]という。その意味では、以下に述べる経過は、シンガポール共同声明が実現したことの意義を、日本政府が正しく理解しなかったと言わざるを得ない。
すでに本監視報告においても紹介したとおり、河野太郎外相は3月8日の衆議院外務委員会において「国際社会がこれまでのようにきちんと一致して安保理決議を履行してゆくこと」が、米朝平和プロセスにとって重要だと述べた[注6]。4月19日、ワシントンで行われた日米安全保障協議委員会後の記者会見においても、河野外相は「北朝鮮が、全ての大量破壊兵器及び全ての射程の弾道ミサイルのCVID(完全、検証可能、かつ不可逆的な廃棄)を行うまで、安保理決議を完全に履行する必要がある」[注7]と、安保理決議にのみ執着した意見を述べている。
日本政府のこの方針は、想像以上に大きな影響力をもっている。6月下旬に日本が議長国となってG20大阪サミットが開催され、8月下旬にフランスが議長国となってG7ビアリッツ・サミットが開催される。安倍首相は、G20とG7における北朝鮮問題に関する見解の共有を図るために4月22日~29日、欧州を歴訪した。4月23日にフランス[注8]、4月24日にイタリア[注9]、4月28日にカナダ[注10]において首脳会談を行い、そのすべての国において北朝鮮情勢について共通の認識を確認し合った。その内容は、「安保理決議に基づき、北朝鮮による全てのWMD及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDを実現するために緊密に連携すること」、さらに「経済制裁逃れを阻止するために、哨戒機及び船舶による『瀬取り』への対処で協力しあうこと」などであった。
日本政府のこの方針は、想像以上に大きな影響力をもっている。6月下旬に日本が議長国となってG20大阪サミットが開催され、8月下旬にフランスが議長国となってG7ビアリッツ・サミットが開催される。安倍首相は、G20とG7における北朝鮮問題に関する見解の共有を図るために4月22日~29日、欧州を歴訪した。4月23日にフランス[注8]、4月24日にイタリア[注9]、4月28日にカナダ[注10]において首脳会談を行い、そのすべての国において北朝鮮情勢について共通の認識を確認し合った。その内容は、「安保理決議に基づき、北朝鮮による全てのWMD及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDを実現するために緊密に連携すること」、さらに「経済制裁逃れを阻止するために、哨戒機及び船舶による『瀬取り』への対処で協力しあうこと」などであった。
このような日本の外交方針は、歴史的なシンガポール米朝首脳共同宣言の履行と国連安保理決議の履行との相互関係について、正しい理解に基づいているとは到底言えない。安保理決議の目標の実現のためにシンガポール合意の履行を優先させなければならないという認識を共有する努力こそ、いまなすべき日本外交の仕事である。(梅林宏道、平井夏苗)
注1 米国務省「国務省高官の随行記者への説明」(ペニンスラ・ホテル、マニラ、2019年2月28日)
注2 米国務省「北朝鮮に関する国務省高官の特別ブリーフィング」(2019年3月7日)
注3 注2と同じ。
注4 例えば「DPRK外務省報道官は、国連安保理『決議』に全面的に反対する」(『朝鮮中央通信』、2006年10月17日)(英文)
注5 太田昌克「米朝決裂 隠された第二ウラン濃縮工場」(月刊『文芸春秋』、2019年5月)
注6 衆議院外務委員会議事録、2019年3月8日
注7 「米・日2+2閣僚会議の共同記者会見におけるパトリック・シャナハン米国防長官代行、河野太郎日本外務大臣、岩屋毅日本防衛大臣と同席したポンペオ国務長官の発言」、米国務省、2019年4月19日。
注8 日本外務省「日仏首脳会談及び昼食会」(外務省HP、2019年4月23日)
注9 日本外務省「日伊首脳会談」(外務省HP、2019年4月24日)
注10 日本外務省「日加首脳会談」(外務省HP、2019年4月28日)